(作成日:2023年12月31日)
面積 : 7.562㎢
人口 : 28,091世帯、59,482人(男29,805人、女29,677人)
百済時代に弥鄒忽(ミチュホル)と称する(東国輿地勝覧の百済建国建設による)
「花島鎮(仁川広域市記念物第2号)」は、大韓帝国末期に外国勢力の侵略を防ぐために設置したもので、毎年5月になるとこれを背景に花島鎮祭りが開かれる。 花島鎮祭りは仁川市で最も長い歴史を持つ軍営祭りで、 「御営大将築城行列」、「御営大将教旨下賜式」、「無形文化財公演」などの代表プログラムをはじめ、 花島鎮の歴史を伝える伝統文化行事や「区民のど自慢」、「青少年フリンジフェスティバル」などの住民が参加するイベント、「特集公開放送」、「東区観光コンテンツ体験館」など多彩な公演と体験プログラムが披露されて、仁川を代表する郡営祭りとして位置づけられている。
- 市記念物第2号 -
花島鎮(ファドチン)は、日朝修好条規の後、無理に開港を要求する日本に対抗するために、高宗が1878年8月27日御営大将のシン·ジョンヒを派遣して鎮と砲台を設置させたのがその始まりである。
しかし、1894年甲午改革に軍制が改編されたことで、花島鎮は焼失した。その後。1882年5月に朝米修好通商条約の締結100周年を記念するために塔を建て、1988年9月には当時の仁川直轄市が復元を進めて今に至っている。
主な施設よしては、兵営11棟、遺物展示館、野砲展示場(韓米修交記念碑、砲台)、4つの庭(東軒マダン·内舍アンマダン·内舍クンマダン·サランチェ)などがある。5月になるとツツジが満開して目を楽しませる他、重要無形文化財や国楽公演、体験教室などをテーマとした花島鎮祭りが開かれる。
水道局山タルトンネ博物館は、1960~70年代、タルトンネ(貧民街)庶民の生活像をテーマにした体験中心の博物館である。 水道局山の昔の姿と実在した人物を復元して展示していて、当時の生活ぶりを一目で見ることができる。その時代を経験した人には郷愁を感じられる場所として、また若者たちには当時の生活を理解する教育の場として活用されている。
1979年にできたペダリ地下商店街は、工芸家たちがここに集まってくるにつれ、東区ならではの特色ある伝統工芸商店街になった。ここは職人精神を受け継いだ伝統工芸人たちのゆりかごとして、東区文化の象徴的な場所として位置づけられている。ここでは直接作った工芸品を展示·販売しており、また伝統工芸を学べたがる人の出入りが絶えないところになっている。また、毎週土曜日には無料で工芸体験プログラムを運営していて、染色、革、ビーズ、韓紙、珪防工芸など、多様な講座が無料で体験できる。工芸店舗のオーナーたちは自分が持っている知識や能力を人と分け合うという意味で、扇子·筆箱作り、紙工芸、陶芸、刺繍、珪防工芸、染色、革工芸などの多様な講座を提供している。
仁川東区ではペダリ地域の一部を文化·芸術の街として指定し、この区域内で活動を希望する文化芸術家および斬新なアイテムを持つ起業予定者を支援することで、東区を訪れる観光客にユニークな食べ物、見どころ、楽しみどころを提供している。
1980年代以降、アクセスが途絶えていた万石洞、花水洞一帯の海岸にウェーブデッキ、海上展望台、フォトスポットなどの親水空間を造成し、徒歩や自転車などを利用する観光客が海に眺めながら散歩できるように休息場所を提供しており、さらに多様な照明演出によって特色ある観光地として生まれ変わっている
ソウルに向かう穀物を万石も積んでおいたところといって「万石」という名前が付けられたという万石埠頭は、週末には釣り人が多く訪れるところとして有名である。キム·ジュンミ作家の小説「ゲンイブリマルの子供たち」の舞台となった「ゲンイブリマル」は、万石洞タルドンネ(貧民街)の別称である。また、ここは仁川上陸作戦の地点だと言われるレッドビーチ(赤色海岸)地域が月尾島付近ではなく、今の万石埠頭だったという説があるほど、歴史的にも意義のあるところである。万石埠頭と花水埠頭は1970年代まで仁川を代表する漁港だった。また、仁川唯一の水産物共販所であり、アミの塩辛が全国的に有名である。
仁川の第2の漁港であった花水埠頭は、戦争から避難してきて故郷に戻れなくなった人々が定着した自然港で、立地条件が良いところである。1970年代には延坪や白ニョン近海で獲れた魚を集荷する埠頭であって、塩辛用エビ専用船が入港するほどアミ塩辛市場として有名である。また、魚を捕る漁民が直接販売もする花水埠頭水産物直売場が埠頭の近くにあって、刺身用の活魚とサザエ、ホヤを始め、いろんな新鮮な魚介類が購入できる。
活気に満ちた 幸福都市、東区
区政方針
仁川広域市東区金谷路67(松林洞)